「人でなし企業」から「まともな企業」へ橋渡し

狂気の沙汰

「人でなし」が経営している時代

少なくとも生活と人生は考えられた昔の会社勤め

過酷な労働環境というものは、昔もありました。

でもその苦労の先にはちゃんとした報いが用意されていました。

若い頃に多少の無理使いがあったとしても、一定の年齢になると年齢相応の生活や立場、地位を考えてくれるような風土が有りました。

サラリーマンの世界であれば、年功序列制度と終身雇用制度があり、給与は概ね右肩上がりで、競争こそありましたが、年齢を重ねるにつれて、30代には30代の、40代には40代の、50代には50代の、年齢相応のポストも用意される傾向にありました。

職人の世界であれば、親方が、弟子に店を持てるように取り計らったり、何らかの便宜が図られたものでしょう。

経済性や効率性が云々といった話ではなく、人として面倒をみるのが当たり前という価値観が支配的だったのだと思います。

「人でなし」と見られることが今以上にずっとずっと恥ずかしいことだと理解されていたのですね。

そういう価値観の中では、社員の人生設計に付随する諸々のことを念頭に置かないで雇うということは、考えられないことだったのでしょう。

社員の人生設計などを無視した経営を行えば、謂わば自らを「人でなし」と認めることだったでしょう。

そして、恐らくは、社員らにも「人でなし」と烙印を押されたことでしょう。

そういう風潮にあったのだと思います。

今では「人でなし」が大手を振って闊歩(かっぽ)しています。

従業員の生活・人生を意に介さない企業の増殖

現代社会では、社員の生活に無関心な企業が増えました。「人でなし」が経営している企業、「人でなし企業」が増えたということです。社員の生活が成り立つかどうかに関心がなければ、年齢相応の生活が出来るかどうかについても関心はありません。日頃、顔を合わせているのですし、企業が存続しているのは、社員らのおかげだというのに、どうして無関心でいられるのか分かりません。

一昔前ならば、年齢相応に生活できるような給与を支払えなければ、採用を見合わせていました。それは相手を慮っての(おもんばかっての)お断りです。他に可能性があるのに、十分に遇することのできない自社で採用しては申し訳がないという考え方です。

もう一方で、多分に多少割を食っても人助けだと思いながら雇った場合もあるのではないでしょうか。経済効率だけを重んじる現代人の感性からは理解できない話かもしれないのですが、家族や近親だけでなく、社会全般への人間愛が、まだまだ有ったのだと思います。

ところが現在ではどうでしょう。

将来の見通しなど考えもせず、「当面のつなぎになればいいか」くらいの考えで、人を平気で雇います。給与を支払う十分な原資もないのに採用する会社まであります。狂気の沙汰としか思えません。

転職歴などに対して否定的な企業が多い中、経歴に傷をつけてしまう恐れのあること、そこに勤務することで、その人にとって人生の回り道になることなど全くお構いなしなのです。こんな企業が驚くほど増えました。

現代でも「まともな経営者」はいる(筈)!

もちろん、今日でも、社員の将来や人生設計をきちんと念頭に置いて、社員を雇用し、経営している「まともな企業」、「まともな経営者」はたくさんあり、おられると思います。

そう信じればこそ、「人でなし企業」をとっとと見限って、「まともな企業」へ移りましょうと謳うウェブサイトを立ち上げたのです。

従って、目標は、「人でなし企業」から、そんな「まともな企業」への橋渡しをお手伝いすることもミッションに加えています。

コラム

君自身の人格ならびに他の全ての人の人格に例がいなく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない。(イマヌエル・カント 道徳形而上学言論 篠田秀雄訳 岩波文庫 103頁[第36刷])

他人を手段として使用することに何らの良心の呵責も感じないのが現代経営者の姿だとすれば、現代の倫理観は近代から大きく後退しているように思われます。

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